速度と気魄

日記再開を心に期す。一度考えを溜め込む事に身体が慣れてしまうと、今度は吐き出すのが辛くなる。少しずつ助走を繰り反し、ペースを掴んでゆくしかない。


先日お会いしたオオムラさんは、日本のCG映像業界ではパイオニアとして知られる人だけど、68歳とは到底思えない若々しさだった。今も現役のプログラマとして、リアルタイム画像処理技術を使った非常に面白いプロジェクトを行っている。年を取ると大規模なプログラム開発は難しくなるものだが、オブジェクト志向に救われた、と仰云っていた。前夜まで自分が作っていた部分の「内容」を忘れても大丈夫だからだそうだ。現役続行の大敵である老眼は独自の眼筋トレーニング法で三ヶ月で治してしまい、数年前にはサーフィンも始めたそうで、クラシックギターの腕前も凄い。こう云う人物像はアメリカのプログラマ列伝などではたまにお目に掛かるが、日本人では余り聞いた事がない。
印象的だったのは、「実体」概念から「関係」概念への転換と云う、近代後のお題目とされがちな考え方の実利的側面についての話だった。オームラさんはスポーツの科学も研究していて、松井稼頭央の走塁を撮影したビデオの解像度を徐々に粗くしてゆき、最後にはその姿が2x2ピクセルの明滅になるようにしたが、それでもその映像からは、走塁する松井選手の姿を見て取ることが出来たと云う。「とすれば、我々が見ているのは実体としての情報(明滅する4ツの輝点)ではなく、別の何かと云う事になる」。
1フレームだけでは何も読み取る事ができないが、時間の中でその情報が展開され、意味のあるものとして認知される。同様の例は枚挙に暇がない。大劇場の最後列から見る芝居。役者の表情のディテールは到底分解し得ない距離だが、我々は確かにその感情表現を受け取る。或は日本的なアニメーション。デッサン的な正確さに基づかない原画の方が、時間の中でのリアリティを雄弁に主張することが屢々ある。実体として考えられて来たものの「相互の結び付き方、配列のされ方」を注視することで、もうひとつの探求の地平が姿を現わす。「何故そのようにあるのか」の次には、「何故そのように感じられるのか」と云う問いに立ち向わねばならない。科学が芸術の謎に挑むと云うのは、多分そのようなことなのだ。
話を聞いていて、とにかく頭の回転が速い人だと感じる。立ち止まっても詮方ない部分は気にせずどんどん前に進んでゆく。誤謬の可能性よりも、仮説が真実であるとした時に到達できる洞察の深さ遠さを問題にしている感覚があった。
現役の場所に居続ける為には、この速度感が重要なのだと思う。時代の中で最も激しく変化し、それ故に居心地は決して良くない場所に身を曝すことを億劫がらない。ありとあらゆる年齢相応の「ぬるま湯」が差し招くであろう環境にあって、敢えてその道を択ぶのは容易ではない事だろう。だがこの様な人が実際に居ると思い知っただけでも、今の自分には収穫だったと思う。