デジタル技術による根源への回帰

歴史的な文脈を踏まえて自らの進むべき場所を定めなければならない。
内的・外的な必然性への徹底的な考察を踏まえないで行われる表現に意味はないし、そもそも時の経過に耐え続けることは出来ない。

モダニズムの圧倒的後退。あるいはそれは、モダンの根源にある考え方のデジタル技術を用いた精緻化であるのかも知れないが。

モダニズムはつねに「外部」「新しいもの」へ触手を伸ばすことにより延命してきた。だが、いまや人々の興味は「内部」「古くから変わらないもの」としての人間存在へと移っている。無意識に人間を確認したがっているのだ。

19世紀末のサロンの当時の古典主義と同等、人々はモダニズムに辟易している。それはもはや、この100年掛けて生の本質を見失ってしまったことの墓碑銘でしかない。

つまり振り子はまたしても逆に振れたと云うことだ。
人間存在の意味を、新しい技術的可能性の上に立って、もう一度根源から問い直す時期が来た。

情報技術は人間の精神活動に新しい広がりをもたらしたが、その広がりの大部分は未だ荒地と言って良いだろう。我々はそこを耕して沃野となし、存在を暖かに包み込む、豊かな環境を作り出さなければならない。

現今のデジタルの表現をつつむ問題はそれが「デジタルであること」の中にあるのでなく、その表現手法がいまだに粗野で稚拙にすぎ、その中で真に精神を解放することが出来ない、ということの方にある。集積度と処理速度の上昇により、デジタルの世界に重畳できる情報はどんどんと増えている。その可能性を引き出す、表現者の方の努力が足りないのだ。

それがメディアであり、対象物であるという意味では、デジタルであるものとデジタルが介在しないものの間に差異は存在しない。それは人間が環境の中に記した情報として同等の存在価値を持つ。

モダニズムが放擲した美的価値を、デジタルの中に取り戻さなければならない。その中で人間性を回復していかなければならない。それがこの時代に課せられた使命なのだ。