Tue, Jan 19

  • 00:03  一部引用すると「夏目漱石は開いているけど、森鴎外は閉じている」「ナルニアは閉じているが、ゲド戦記は開いている」「「木かげの家の小人たち」は「開き」で、「暗やみの谷の小人たち」は「閉じ」」。凄く良く判る。一見開いていた「だれも知らない小さな国」が実は閉じていたという話にも首肯。
  • 00:17  もちろん優劣ではなく、好みの話なのだけど、確かに自分も「開いている」作品に惹かれ続けて来た。その感覚はたぶん絵画や映像、ノンフィクションまで延長される気がする。逆にファンタジーの看板を下げているのに、一見して非常な違和感を感じる事も多々あった。
  • 00:39  芝田さんは「わたしがファンタジーに求めるものは、この世界のミニチュアではないのだ。この世界のシステムをなぞることではないのだ」と書く。「「別の」システムを希求するものとしてのファンタジー、それを「開いている」ファンタジーと呼びたいのだ。」と。
  • 00:48  出典元:「魔法のファンタジー (てらいんくの評論)」ファンタジー研究会 http://bit.ly/8qYiTN
  • 01:12  「開いている」作品に触れると何が起きるか。確かだと思っていた自分の足元がふらつき、所与のものであった社会や歴史や思想がそうでないことが判る。存在が根底から脅かされる。暗闇の底を覗いてしまった気になることもしばしばだ。だが、世界は本来「そういうもの」ではなかっただろうか?
  • 01:31  都市に暮らす人間は特に、四六時中人工的な情報を写すスクリーンに囲まれて生きているようなものだ(PCに向かわずとも)。人工の景観、人工の社会制度、人工の時間。だが時折、そのスクリーンの向こうを見せてくれるような出会いがある。自分はいつも、そういう瞬間を心待ちにしている。
  • 01:36  あ〜、ブログ化しているな〜。
  • 11:06  @usagi_ya じ、実はそこで「これは絶対読まなきゃ!」と思ったのですが、お目に触れかねない所で云うのは失礼な気がしましたので…。僕は勝手にそれを「風が吹き抜ける感じ」と呼んでいたんですが、多分芝田さんとほぼ同じ感覚です。ちなみに、SFだとクラークにそれを強く感じます。  [in reply to usagi_ya]

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