書くと云うこと

前日の記事は、自分がこれまでにコンピュータ上で「書いた」、最長の文章になる。つまり、キーボードを全く用いずに記述した、と云う事だ。

手書き認識アルゴリズムの進歩とCPUの高速化によって、手書きで教育され手書きで思考して来た人間の感じていたどうしようもないストレスは、遂に過去のものとなった。今の状態は、原稿用紙のマス目を埋める度に優秀な植字工が活字を拾い、即時印刷に回されているようなものだ。こうした進歩は確かに驚異としか云いようがなく、クラークの云う「魔法」とはかくなるものかと思わされる。また最新の技術の成果も、適切な使用さえ行われれば過去の歴史的畜積との幸福な邂逅が可能だという、良き実例でもあるだろう。

勿論過去において優秀な萬年筆の使用が名文の誕生を担保しなかった如く、こうした道具の進歩と表現の良し悪しは無関係だとの見方もあるだろう。だが客観的な評価とは別に、主観レベルではキーボードの打鍵による入力と手書きによるそれとの間に、明確な意識の差が存在する。文章を事前に構想する時の「射程距離」が、明らかに長くなった気がするのだ。

射程距離とは即ち、未だ書かれざる文章の姿を、現在の筆記位置からどれだけ遠くまでイメージできるか、と云う事だ。かつては自分も、訓練された記者やライターがそうであったように、下書き無しの一発で原稿用紙のマス目を制限字数きっかりに埋める事など朝飯前にしていた。これが出来たのは用紙の物理的な空隙を絶えず認識しながら、原稿の大まかな全体像をイメージベースでそこに当て嵌める事を行っていたからだ。ところがキーボード経由でローマ字かな変換による日本語入力を行うようになってから、こうしたイメージべースの考え方が出来なくなってしまった。ひとつには相手がエディタのような物理的領域を持たない媒体である事もあったが、より重要なのは「書字」と云う身体的行為の欠落であったろう。

文字を書くと云う行為は、単なるアウトプットである以上に、自らの構想した文章を身体化された感触として再認識し、ビジョンの補正を行うためのフィードバック回路の欠かせない一部である。それは画家にとっての絵筆のストロークの一筋一筋にも似ている。特にタイプライターが早くから普及したアルファベットベースの社会と異なり、漢字と云う一種のアイコンを使いこなす我々の文明にとって、文字と絵画の境界は限りなく曖昧なのだ(書道と水墨画の関係を今更持ち出す迄もないだろう)。

ローマ字かな変換とは、そうした本来相容れない概念同士を無理に接ぎ合わせたキメラの如き存在であり、漢字文明圏に課された謂れなき桎梏であったと云える。イメージベースで思考することで文章作成を加速していた人間は皆、この方法に猛烈な違和感を覚えたはずなのだ。これまでただ書く(「描く」)だけで済んでいたものが、ローマ字打鍵→ひらがな変換→候補選択による漢字変換と云う、多くの夾雑物を介したプロセスに変わった。絵描きに同様の事が起きた場合を想像してみて欲しい。ストレスの多さは想像に余りあるものだった。結果として多くの人々が、自分と同じような生産性の著しい低下、或いは文章内容の質的な変化(おそらくは良からぬ方向の)をも体験したと思われる。

このように現在の我々が、完全とは行かぬ迄もある程度実用的な書字による電子的な文章作成法を手に入れたと云う事は、大いに意味のあることだと思う。何故なら全球の統合がある面で避け難く進行して行く時代において、我々に必要なのは独自の文化的背景に基づく、独自の粘り強い思考の、国際社会への継続的な提出なのであり、その思考の強靭さを担保するものとして、身体性と結び付いたコンピュータへの直接書字行為の復権が、きわめて重要なのではないかと思われるからである。