あめりか

月曜の帰国以来、熱に浮かされた様な状態でいる。

自分が受け取ったもの、感じた事に就て考えをどうにか纏めようとするのだが、何から手を付けていいやら見当がつかない。にも拘らず、書く事で何かを吐き出さなければどうにも立ち行かないと云う焦燥だけは存在する。これも知恵熱と云うのだろうか?

渡米は初めてと云う訳ではない。だが今囘はその途中から、自分の踏みしめていた足底が地滑りのようにぐら付きだすのを感じていた。おそらく2月の紐育、そしてこのたびのLAシーグラフと、あまり間を置かずに訪れた事が影響しているのだろう。長期滞在者のそれには及ばないにしろ、厖大な二次情報に基づいて形成されたアメリカ像の、直接経験による大規模な修正が漸く始まったのかも知れない。

そこには憧れと幻滅、希望と失望がないまぜになった、不思議な感覚がある。戦争をし、世界中の政治に容喙しながらこれ程の「祭り」を仕掛ける事ができるこの国のもの凄さが腹の底から判って来ると同時に、その風景や事物が「陰翳」や「深み」と云うものをどこまでも決定的に欠いている事も思い知らされる。


国外での経験こそが筋金入りのナショナリストを生むと云う話は本当だと実感する。自らの生育環境に空気のように存在していたもの、それ故に意識すらしていなかったものが、世界のどこにでもあるものではないと気付く機会は、生れた文化圏に留まる限りそう滅多にあるものではない。国外に於ける文化的な酸欠状態は徐々に禁断症状にも似た飢餓感を煽るようになり、それ故に帰郷の感激は、かつては見られなかったどこか異常な熱情を伴うようになる。かくて祖国が言語化され「発見」されるのだ。


アメリカ人が言葉へ寄せる圧倒的な信頼と、言語化不能なものへの不信(あるいは無視)との間には深い関係がある。結果として、彼らの周辺には言語化可能なものばかりがあふれることになる。彼らの都市が見せる風景は平板で奥行きを欠いたものだ。高層ビルは、フロアを縦に積み重ねて壁を付けただけ、と云った風情をしている。道路、交通信号、レストラン、教会、全て言語化できる以上の機能を担っている様子が見られない。彼らが作るゲームの中の都市は、我々が思っているよりずっと現実に近かったと云う訳だ。歴史的文脈を背景にしている筈の様式建築ですらどこかフェイクだ。それはせいぜい、使用ポリゴン数の多寡程度の認識的差異のみしか有しない。「場の感覚」など此処には無い。すべてがパラメタライズされ、パラフレーズ可能なのだ。ここには、名も知れぬ多数の人々の利害の交錯や怨念や意志が混沌となって外部に露出している、我々の奇妙な都市景観とは根本的に異なる原理が流れている。この都市では、云わば全てが「スペースシャトルの発射台」と等価なのだ。

人工環境は、それを形作る人々の内面をも雄弁に語っている。徹底的な言語化と合目的性の追求の涯にしか大気圏外に至る道はない事は認めよう。ジュラシックパークの恐竜のCGも、インターネットそれ自体も、彼らのそうした気質抜きに存在しえなかった。神話と伝説の時代が、此処では生々しく存在している。歴史の意図的な断絶がその再臨を可能にしたのだ。ルーカス然り、ジョブズ然り、ビジョンを設定し世界の創造を行う、生きながらイコンと化した人々。だが、多くの神話の登場人物達がどこか人間的陰翳を欠き、外部に設定された運命にどうしようもなく駆動されるのに似て、アメリカ人は現代の資本主義と科学技術と云う巨大な神聖劇の登場人物を今も宿命的に演じ続けているように見える。彼らの映画と同じく、そこには心の深い部分での共感を誘う物語性が不足しがちなのだ。そして問題は、我々もまたこの劇に参加するか否かと云う選択を、匕首のように突き付けられていると云う事だ。

彼の国が現在の人類文明に於て奇蹟と云うべき輝きを放っているのは事実だ。だが、彼らの流儀で彼らの人工環境の中に長く暮らすことは、少くとも自分には不可能だ。感受すべきディテールの貧困、八百万の神々の不在を嘆くあまり、発狂するのがオチだろう。

遅効性でも良い。とにかくアメリカ人達の神話に対抗可能な何らかの価値観を探し、乃至は打ち樹てて、これを身に付けるようにしない限り、我々の無意識はいずれ完全に彼らのものと等価になるだろう。そしてそれは、種の多様性を重んじる生態学的観点からも好ましい話ではない。


世間はこれを、典型的な手順によってまた一人プチ・ナショナリストが誕生したと嘲うだろうか?だがこれこそが、遠からず全球規模で起るだろう「衝突」の実態なのだと思う。