「手に触れるものだけが本物」なのか

電脳コイル』で問われた問いは、実はアニメーションそのものの根底に迫るような深みを持ったものだった。もし「手に触れるものだけが本物」であるならば、アニメーションは人の心に訴えるための存立基盤を喪うことになるからである。

人間が作ってきたものの中で、貨幣や書物などいくつかのものは、コンピュータの出現の遙か以前から「情報」の担体として機能してきた。そうした「ものとしての情報」の歴史は、おそらく数千年前に粘土板に楔形文字を刻むことが始まったときにさかのぼるだろう。

既存のものにある種の加工を施すことで、人間社会の中で本来の物質としての価値を超えた、新しい多様な価値を担うものとして流通させる。このとき既に人間の中で、あるがままの「外界」と、人間にとって操作可能なシンボルに還元された後、その内的な操作の射影として外部に再構築された「人工環境」との分離は始まっていた。情報技術の普及は、遙か昔から連綿と行われていたその分離を、誰の目にもわかりやすい形で示したにすぎない。

だから「メールに心を動かされる」のは不思議でもなんでもない。我々が驚くべきなのはむしろ、人が「書かれた文字に心動かされる能力」を持っていることだ。本来、薄く引き延ばされた植物繊維の上に染料が描くパタンと、我々の精神活動の間には、物理的には全く関連性が無いはずなのに、我々は無限の情動をその中からくみ出してきた。文字が電子化されることは、もとから本質的に純粋情報であったものが、より「情報らしい」姿を新たに身にまとったということだ。重要なのは担体の変化そのものではなく、その変化によって明確に見えてくる、我々の精神活動が持つ不変の性質の方なのだ。

文字だけではない。アニメーションのような映像メディアをはじめとして、人の表現活動の全ては、本質的には担体に拘束されない「情報」である。これから我々は、そもそも生まれついて「情報」であったメディアたちが次々にその本来の姿に近づいていく〜電子的な実体を身にまとう〜のを目撃することになるだろう。テクノロジーの進歩が十分でないうちは、それはいささか窮屈で不自由な移行に見えるかも知れない。だがそうした問題が時を追うにつれ解決されてゆくと、物理的拘束から限りなく自由になった情報たちが、私たちの周りでたゆたい、分裂し、融合し、新たな環境を生み出し始めることだろう。いま私たちはその変化のとば口にたって、まだ見ぬ未来に不安すら感じている。たぶんだからこそ今、我々には「先を見る者」が必要なのだ。彼はその予感をいち早く具体化して見せることによって、人々に必要な備えをして貰う役目を持っているのだと思う。