『粗い石』と彫刻

フェルナン・プイヨン『粗い石』を読む。


一言一言が輝く宝のような本だ。資本が全てを支配するかに思えるこの世の中にあって、全く異なる価値観と使命感にもとづいて、峻厳な巌のような生を生きた人々、またその物言わぬ証人としての建築群のことを思う。激烈に変化する歴史の一時期の中での、それは遠い時間から穿たれた不動点であり、私はそこに自らをつなぎ止める努力をしなければならない。手を離せばそこで理性も、歴史を超える眼差しをも、永遠に失うだろう。

彫刻を学ぶことの素晴らしさがようようにして身にしみてきた今、この書物と出会ったことは、単なる偶然でなく、重い意味のあることではないかと感じる。彫刻とはどこまでも素材に出会っていくことだ。デッサンにおいては、炭化した樹木と層状に積み重ねられた草の繊維が筆勢の中で衝突し、ある視点から再構成された現実の痕跡を残していく。塑像では土と木材と棕櫚の繊維を縒った縄が出会う。その土の性質は、修道院の屋根を葺いた瓦の元となったそれと、何ら変わることはない。おおよそ文明の曙たる時より、遙か長い間ひとが続けてきた営みの記憶が、ここでは生々しい形で生きている。絵を描くことも、粘土で形を作ることも、初めは生活の中に必然として用いられる技術だった。人が世界の中にあって、自らの眺めた世界の姿を情報として記録してゆく行為の、もっとも初源の姿がここにある。このかけがえのない素材との出会いを、心の底から大切にしていかなければならない。