普遍美の在處

美術・芸術という日本語の危険性。それはいわゆるArtとどこまで重なりうるか。
すくなくとも「芸」ではないし、人々の不安やおそれ(決して子ども時代の記憶、存在の奥底には届くことのない感情)を瞬間的に掻き立てて事足れりとするものでもあるまい。

だがそれは、人が世界に働きかける「すべ」の一種ではあるだろう。

「アート」が経済に回収される遙か前から、そして経済が崩壊した遙かな後にも、普遍美は人の心を動かし続けるだろう。


彫刻を勉強し始めてからの、手仕事への接近。
それに伴って、読書の内容も変わってきたことが興味深い。


ブランクーシ中原佑介
実家で17年間本棚に眠っていた本。たしか高校生の頃、ルーマニア大使館で貰ったのだった。形態の究極と素材の必然へ向かう強固なる意志の形。必然として生み出された抽象形態。それは人の認知の必然を持っているために力を持つ。


『粗い石 ル・トロネ修道院工事監督の日記』フェルナン・プイヨン
数百年の表現に込められた哲理。普遍の言葉。


ロダンの言葉抄』高村光太郎
彼の云う「自然」は、科学者の云う自然と全く変わるところがない。常に新しく、その探求が終わることのない対象としての自然。知識は自然の方ではなく、真摯な自然の学び手の方に蓄積していく。


『「話の話」の話—アニメーターの旅 ユーリー・ノルシュテイン』クレア キッソン
「記憶」の中に深く深く沈潜していくこと。自分の中ではなく、生まれ育った土地や、無数の人々や、山野河海の記憶の中へ。そこに普遍美がある。そこに大本の物語の姿が彫り出されるべく眠っている。原型としての美。


100年、またそれを超えて残っていく、人の心に届いていく表現(普遍美)の背後にある思想は実のところ変わることがない。変化するのは時代の趨勢の方であって、その立ち位置から見た普遍美の姿である。
それは自然科学と自然の関係になぞらえられる。

普遍美とは、物質上に展開された記憶の表現形式である。
ノルシュテインのペレジバーニエ(追経験)。

誠に真摯に、もう一つの生を生きることによって、人は世界をこれまでとは異なった、しかし真実の見方で眺めることが出来るようになる。それは精神を鍛えていく。

児童文学との精神的に完全な共通性。アニメーションが子供のものとされ、しかしそのなかから普遍が登場したことの必然。
『話の話』と、佐々木昭一郎の『四季・ユートピアノ』とは、ここで完全に同じ魂を共有するものとなる。
「幼時の記憶」と「現在」とペレジバーニエ。