ロダンについて

光と影と陰のつくりだすリズムに注意すること。量を掴むとは、光と陰の相互の対照から、見えない部分の立体をも把握することなのだ。ロダンが言っていた、ミケランジェロとゴシックの類似とは、ひとえにその陰の表現の中にある。

西洋美術館にあるロダンの作品をみた。小雨の日で、淡い天空光が満遍なくフォルムを浮き上がらせていた。ロダン自身の言葉の通り、彼の作品(とりわけ「アダム」と「イヴ」)はミケランジェロギリシア彫刻の中間点を目指しているもののように見える。ギリシア的な陰影の豊かさと、ミケランジェロ的な激しい感情表現が同居しているのだ。

まことに彼の発言を追っていると、下手な科学者よりもよほど自然の本質に肉薄している様に思える。自然の法則が作り出したものに醜いものなど存在しないこと。醜さを作り出すのは人間の認識する力の限界であること。つまり彼にとって「美」とは、本質的に人知による把握を越えたところにある自然の姿を、人間の認識に向けて適切に翻訳することなのだ。この考え方は現在でも十分に通用するどころか、美術の名の下で行われている無数の試行錯誤から、世界の真実を指し示すものを見分ける為の試金石ともなりえよう。

この世界は本質的に「美」で溢れている。そのことを一度悟ってしまうと、生あるが故の苦痛の奥底にあっても光を見いだし、苦悩のさなかに道を見失うことがない。人間は生まれ合わせた時代の制約と解放の中でいきる。かつての時代がそうであったように、我々の時代にはふさわしい「美」への漸近線があるはずであり、私はそれを見いださなければならない。自然科学はその為の必須の入り口になるだろう。


ウィリアム・モリスやアーツ&クラフツの芸術家たちが教えてくれるのは、心から必要と思う限り、どんな形態の表現手段にも手を出していい、それらを兼ね備えてよいということだ。一つの道に徹底的に通暁する事が、いつの時代も可能であるとは限らず、またその道筋にしてからが、遙か以前の時代に誰かによって初めに切り拓かれたものである以上は、踏み込むことを徒らに恐れるべきではない。