グスタボ・磯江との遭遇

 『存在の神秘 磯江毅 遺作展』の最終日に、御成門東京美術倶楽部へ。人がその一生涯をかけて行う世界認識の、ひとつの極限の形を見た思いがする。この出会いの余韻は、暫くの間おさまりそうにない。


 彼の事を知ったのは、書店で手に取った『美術手帖』だった。特集は「日本のアーティストガイド&マップ」で、批判的精神の面倒な束縛から解放された作家達の愉快な「とんち芸術」振りに、軽い目眩とある種の清々しさを覚えたのだが、特集の後の通常記事の中に、それらとは明らかに異質な存在感を放つ写実画の数葉があり、知らず眼を惹き付けられていた。中のひとつが、この『薔薇と緑青』だった。

(画像出典:磯江 毅 Gustavo Isoe 1982-2007 彩鳳堂画廊

 ただ「写実画」と云ってしまうのが憚られるような、存在の侵し難い深みのようなものがあり、どこか現代美術の文脈と懸け離れた、強固な作家の意志が予感された。記事中に告知されていた遣作展を訪ねようと思い立ち、そして、心の底から欲していながら、これまで自分でもはっきりとは認識していなかった、ある精神と表現の形に出会う事になった。

 とにかく、絵の前からしばしば一歩も動けなくなる。こちらが良く見たいからと云うより、向うから鷲掴みにされる感じだ。

 彼の作品に正対すると、突然画面全体に「合焦」する瞬間がある。すると画家が画布に塗込めた情報が怒涛のように流れ込んで来て止まらなくなる。それは対象を包む部屋の光線であり大気であり、わずかな反射から覗える窓外の風景であり、そして何よりモチーフとなった物質と世界そのものの関係を認識の力の及ぶかぎり追い詰めてゆく、ひとりの人間の眼球と精神と手の動きである。


 磯江毅(いそえ・つよし Gustavo Isoe 1954-2007)は、日本の高校を卒えてすぐにスペインに渡り、王立美術院の人体デッサンの授業やプラド美術館での模写を通じてアカデミックな絵画技法の研鑽を積んだ。フランコ体制下、大戰後の欧米美術の流れと隔絶したスペインには、他では失われた西洋写実画の思想と技が生き延びていた。

 圧倒的な伎倆で描かれた作品に対し「まるで写真のようだ」と口走るのはた易い。しかしひとたびその画面に向い、恐ろしい程の静謐さの向う側に耳を澄ませるとき、それが写真を超えた何物かであり、写真技術が生まれる遙か昔から連綿と承け継がれて来た「写実」と云う認識手法が、絵筆を通して「この世界に存在すること」の秘密へと迫ってゆこうとする、生々しい軌跡そのものに他ならないと知る。実際それは、写真をべースに描かれたスーパーリアリズムの絵画とは根本から異なるものだ。磯江毅の眼差しは、レンズの解像度にも、フィルムの感光特性や粒状性にも拘束されていない。それは我々の知覚する現実、即ち網膜からの情報を脳で幾重にも重ね合わせて再構築した外界の認識像へと、更に肉薄している。

 写真機と人の視覚の違いは、とどのつまり「見えている対象について考える力を持っているか」と云う事に尽きる。レンズもフィルムも写し取るのは光学的な状態の反映のみであり、ものがこの世に「在る」ことの不思議さについて考えたりはしない。一方磯江の絵筆は、対象となる物質についての徹底的観察と思考によって、精神の中に結像する「存在」の印象を 、油絵具と云う物質を用いて再現する(実際、絵具の厚みが作り出す陰翳すら計算に入れている)。ベラスケスやフェルメールの絵画がそうであるように、視覚を媒介に、視覚以外の全ての認識の情報を重畳することで、写真技術の限界を超えてしまうのだ。

 「写真」と「写実」との本質的な相違を、これ程端的に思い知らされた事はかつて無かった。本当の写実絵画の中では、時間は静止すると同時に流れる。それは物質存在が時間の中を進行してゆく現象自体を、鑑賞者の中で再現するメディアだったのだ。


 暫く前から、写真技術の普及以降も写実の側に止まって表現を続けた画家たちのことがとても気になっていた。昨年最大の収獲だったヴィルヘルム・ハンマースホイをはじめ、ラファエル前派、コロー、バスティアン=ルパージュ、サージェント等々。彼らが写実に見出していた「写真を超えるもの」の正体とは、この「存在」そのものへの肉薄だったのだろう。

 かつて人々は、一枚の絵画の前に数時間も佇み、感窮まって涙にむせぶ者もあったと云う。磯江毅の作品の中には、絵画が映像メディアの王であった時代に身に纏っていただろう高貴さが、確かに甦っていた。それらはギャラリーの柔かな灯りに照らされて静かに居並び、メディアの物質的基盤が大転回して右往左往する私のような人間に、人生を賭して追求してゆくべき真実の問いの在処を、永遠に指し示し続けているようにも見えた。



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http://homepage2.nifty.com/saihodo/artists_isoe_2.html
磯江毅の作品紹介ページ(彩鳳堂画廊)



磯江毅 写実考──Gustavo ISOE's Works 1974-2007

磯江毅 写実考──Gustavo ISOE's Works 1974-2007

※遺作展では3月に出る画集が販売されていました。とても良い本です。