“日本におけるドイツ建築”

六本木の空中高くにあるアカデミーヒルズで、藤森照信さんのレクチャー。森美術館で開催中の東京−ベルリン/ベルリン−東京展の一環で、ドイツの近代建築と日本の近代建築の関わりについての話だった。
法務省の赤レンガ館など日本の官庁街を計画した明治政府のお雇い外国人、エンデとベックマンらと共に、後にドイツ工作連盟を興すことになるムテジウスが来日しており、最初の設計建物も日本にあったこと。彼は間違いなく日本建築を見ていて、その印象が後の活動に影響を与えたと思われること。ムテジウスの弟子のベーレンスの手になるAEGタービン工場を佐野利器(耐震構造設計のパイオニア。「震度」の概念を提唱)と本野精吾(自邸は当時画期的なコンクリート剥き出しの外観を持つ)が何度も訪ねた事。ベーレンスの弟子筋であるグロピウスやミースがバウハウスで展開した建築スタイルが日本人留学生や滞在していた山口文象らを通じて輸入され、日本に近代主義建築の流れを作った事──。
藤森さんの云うとおり、交通と情報のネットワークが劇的に発達した20世紀初頭の建築思潮の相互伝播の速度は、全く驚くべきものがあったようだ。一方では、フランク・ロイド・ライトがシカゴ万博の日本館に衝撃を受けて設計に流動的な空間デザインを導入し、欧州で出版されたその図面集を見たグロピウスらに意識の変革をもたらす。本野精吾は「必ず気に入るはず」という確信のもとに、来日したブルーノ・タウトを即刻桂離宮に連れて行き、果たせるかな彼は桂を「発見」する。自ら発したものの反響が、地球を一巡りして還ってくる時には別物になっており、戻った先で新たな波紋を呼び起こす。ドイツと日本のある時期、しかも建築分野に限った話であってもこうなのだから、歴史の中に分け入り、埋もれた人々の営みを掘り起こすことの愉悦は、さぞかし底知れないものがあるに違いない。

他に印象的だったのは、佐野利器の研究室の学生だった野田俊彦卒業論文として発表した「建築非藝術論」が当時大反響を巻き起こし、その影響は後々まで我が国の建築界に尾を引いた、という話だった。日本では工学部に建築学科が属している事と相まって、長い間アカデミズムの世界での建築のデザイン(意匠)軽視の傾向が強かったそうだ。余り立ち入った話は聞けなかったが、おそらくその理由として、一つは佐野の研究に見られるように、地震大国に於いては近代建築の耐震性の確保が重要であったこと、また急激な都市化に伴い、一刻も早い住宅難の解消と生活の近代化が求められていた事があるだろう。
ただ、これは個人的に以前から疑問に思っていた事と重なるのだが、佐野が主導した東京の震災復興小学校や、野田が設計した同潤会の大塚女子アパートが、その思想とは裏腹に豊饒な空間とディテールに満ちていた一方、戦後の学校建築やnLDKに代表される公団住宅が、まさに「住むための機械」という言葉を最悪の方向に徹底したとしか云いようがない、意匠面の貧相さを露呈してきたのは何故なのか。自分の世代はこうした建物に囲まれて育って来たため「日本人というのは空間に対する感性が生まれつき鈍いものなのだ」と考えがちで、却って戦前の空間デザインを(多くはこの世から消滅する直前に)目の当たりにして、その奥深さと多様性に衝撃を受けたりしている。こうした戦後日本のデザインに対する鈍感さ──藤森さんはこれを端的に「民度の低さ」故であると云っていたが──へのもっともな理由付けとして「建築非芸術論」に由来する意匠軽視の論理が援用された事がなかったか、日本の戦後の都市および住宅にかんする政策に関わったエリート達の間でどのような意思の流れがあったのかを、もう少し詳細に検証する必要があるのではないか。