ジョン・ハウ展オープニングレセプション

夜はカナダ大使館に出かける。「指輪物語」の挿画や、その映画版三部作のコンセプトワークを手掛けた事で広く知られるようになったジョン・ハウの原画は、クレーとは打って変わってポスターカラー等の現代的な画材で描かれているにもかかわらず、イラスト的安っぽさとは無縁の高貴なオーラを発しているように見えた。おそらくは画家生来の光と影、植生や建築など、世界の細やかな事物に拘泥する姿勢が、トールキンの緻密な神話世界との相性の良さへと繋がったのだろう。オープニングということでハウ氏自身が会場に来ていたが、どちらかと云えば多くを語らず、静かに様々なものを眺めている哲学者、といった雰囲気のひとだった。
映画版の指輪の成功の要因は、コンセプチュアルアーティストとして彼とアラン・リーを迎えた、ピーター・ジャクソンの人選が全てだったような気がする。映画が限られた時間の中で展開する芸術である以上、ストーリーや登場人物の役割に関して原作通りに行かないのは当然とも云える。問題は映画のもう一つの特徴、視覚によって物語るメディアという側面に於いてどこまで忠実を貫けるか──トールキンが地の文で精魂込めて活写した「中つ国」の風景をどこまで再現出来るかという事なのだ。じっさい、原作の中で地図に基づき度々触れられるフロドの旅の風景は、単なる情景の描写のみならず、物語の各々のエピソードと分かちがたく結びつく事で、全体の印象の多くを決定づけている。ホビット庄は云うに及ばず、裂け谷、モリア、ロリエン、オルサンク、大河アンデュイン、ミナス・ティリス、そしてモルドール。物語の緩急と展開は、どこまでもその舞台によって左右されているのだ。トールキン自らの手になる絵は素朴ではあるが、彼が己の架空世界について、相当明確な視覚イメージを持っていた事は事実である。
ジョン・ハウアラン・リーの双方が、文章によって表されたビジョンの翻訳に長けており、しかも仕事に対してどこまでも誠実な画家であることは、その作品を見ればすぐに判る。結果として彼らを迎えて制作された映画は、その視覚面に於いて永年の指輪ファンをも圧倒する程の原作への忠実性を持つに至った。一番最初に指輪が映画化されると聞いたとき、監督の名前すら知らず、ひたすら疑念で一杯だった自分の心を一転して期待に満ちたものにしてくれたのは、オフィシャルサイトで配信され始めたスチル写真──ジョン・ハウのコンセプトによるホビット庄の実物大セット──だった。幾度となく思い描いていた緑の小山と小さな丸いドアが「そのまま」実体化しているのを目の当たりにしたときから、僕はこの映画の驚くべき達成を予感していたように思う。
映画版の指輪物語は、少なくとも中つ国に関しては、全く嘘を付いていない作品である。彼らの仕事はその真摯さの故に、これから時の風雪に耐えて、永く残っていく事になるのだろう。