残る幻影

一昨日東京に帰って来た時には、全ての存在が曖昧と儚く、霞んだように見えて仕方がなかった。強すぎる陽射しが上と下から照りつけ、ものの陰翳と輪郭が余りにハッキリと見えてしまうあの島々から僅か4時間と少し。速度に魂が置き去りにされたように、中々こちらの世界に適応できない。旅から日常への帰還にはいつも違和感が付きまとうものだけれど、ここまで回復に時間が掛かるのは初めてだ。地図上を縦に移動するのはこれだから恐ろしい。

沖縄本島石垣島の距離は、東京〜名古屋間のそれに匹敵する。八重山諸島を沖縄文化圏として括ることが如何に無茶なことか、漸く判った。何しろ台湾やフィリピンの方が、九州よりも余程近いのだ。

竹富島の家並み。暑熱の中で静かに佇んでいる。真昼間に動き回る愚か者は自分のような観光客ばかり。休むところを探して、島の小中学校裏の御嶽(オン)の辺りにでる。前の道のあたりは確かに、鬱蒼とした森のお陰で暗く涼しいのだが、鳥居の奥からは言葉にならない圧迫感が伝わってくる。内地の神社のように、学校帰りの子どもが立ち寄るような場所では無いのだろう。

この後に自転車で回った久間原御嶽(クマーラオン)は集落から外れた所にあって、貰ったガイドマップには位置が書いていなかった。ようよう辿り着くと、薄暗い参道には白砂が敷き詰められていて、鳥居の下の真ん中に紐で十字に括った小さな石がひとつ、ぽつんと置いてある。ただそれだけなのに、この場所を侵してはならないという圧倒的な意志が伝わってきて身震いがした。この小石はまるで岩のようだ。こじんまりとした場所にも拘わらず、諏訪大社伊勢神宮に参った時のような格の高さを感じたのは、ここが信仰の場として今も現役であるが故だろう。

太平洋戦争中、石垣島の人々は日本軍によって平地から山岳部の密林に強制疎開させられ、マラリアで七人に一人が亡くなったそうだ。一家が全滅した世帯も五十を超えるという。国境のこの島の人々は、2000kmも離れた霞ヶ関や永田町辺りの人々が声高に唱える「国家」と言う概念の胡散臭さを、いまも肌身で感じている。いざ事が起きたとき、真っ先に辛い目に遭うのが自分たちである事を知っているからだ。市長室の壁には「戦争放棄」と大書した額が掲げてあり、来賓があると、必ずこの額の前で写真撮影することになるそうだ。

仕事先だった市民会館の隣りの公園では、オリオンビアフェスタが開かれていた。石垣市を皮切りに、8月半ばのコザ(沖縄本島)まで、南西諸島を北上していくらしい。ステージに立つ男女の司会が、ごくさらりと「こういう風にお祭りが出来るのも平和のおかげですよね」「こういう平和を大切にしないとね」と締めくくる。東京では浮わついて聞こえてしまうかも知れない言葉が、ここでは切実で、心から頷けるものとして響いてくる。どんなに事態を誤魔化そうとしても、物事は八重山まで伝わってくる間に、およそ目くらましを剥ぎ取られてしまう。司会者達の言葉はだから、今この場所で素直に感じている違和感の表明なのだ。

この国の風が、残念ながら良からぬ方に吹いている事は間違いない。ただ、おかしいものを当たり前におかしいと見て取れる場所がまだ残っているのは、肯定すべき事だと思う。

ビアフェスタの最後に打ち上がる花火を見ながら、そうか、石垣ではもう夏を送るのだなと、ぼんやりと思っていた。

八重山の文化とアイルランドのそれには非常な重なりを感じる。自然環境や「場」への強い信仰。近代における弾圧と屈辱の歴史。豊かで成熟した民族文化。ライブの組み立ても、ゆったりと叙情的な曲の後に必ずアップテンポのダンスチューンを持ってくる辺り、既視感ありありである。「イラヨイ月夜浜」の大島保克が、最新アルバムでアルタンと共演しているのも、全く驚くべき事ではないのだろう。