no day but today

映画『RENT』と『ナビィの恋』を見る。

正直これまで、ミュージカルという表現手段の普遍性については疑念を拭い去る事が出来なかったし、そこから更に一回性を剥ぎ取って映画に仕立てた作品に対しては、なおさら食指が動かなかったのも事実だ。しかしその偏見が全くいわれの無いものだった事を認めざるを得ないほど、両作品の完成度は高かった。


『RENT』はとにかく、次々と繰り出される楽曲にひたすら圧倒され放しだった。同性愛や麻薬中毒HIV感染など重い主題を扱いながら、一貫して歌い上げるのはひとりひとりの人間としての尊厳の揺るがなさであり、そこに人にとっての「音楽」という表現手段の根源の姿が垣間見える。

世界屈指の大都市を舞台にしながら、何故か感じられるのは強い土着の匂いだ。この街には歴史が目に見える形で積層している。建築もその集合体としての都市風景も、過去の無数の生の軌跡を刻み込んで、今もそこにあり続けている。去っていった人々の営みの記憶を保存してきた貴重な容れものを、何かに取り憑かれたように破壊しては「再開発」し続ける記憶喪失都市・東京からは、永遠に生まれ得ない類の物語だろう。

作品に込められた思いの真摯さや、作り手達の精神の気高さが伝わってくるからこそ、同性間の絆の描写も自然で、むしろ神聖なものとして受け取る事が出来る。HIVで亡くなったメイプルソープの写真の中にも、侵しがたい雰囲気を持った接吻のポートレートがあった。ページを繰った当初の嫌悪感が、次第に圧倒されるような不思議な感情に変性して行ったことを思い出す。そこには確かに、存在の持つ尊厳が写しこまれていた。


ナビィの恋』もまた、生活に音楽が溶け込むと云う事の自然さ、感情を歌と三線(あるいは、フィドル)に乗せて伝えるという営みの雅びさを思い出させてくれる作品だった。音楽ははるか昔から、人々の中にこんな風に息づいて、ゆっくりと生き延びてきたのだろう。

過去のある時点に始まり、常に誰かの手によって補われ改められつつ歌い継がれてきた音楽には、古くから補修を繰り返して使い続けられてきた家屋のような丸みと靱さがある。この映画の中では、世界に生まれ、育ち、恋をし、結ばれ、子を産み育て、年老いて、やがて消えゆくことの、全てにわたる喜びが、音楽に託して表現されている。存在を喜べないままに生きる事は罪だ。人は幾歳になっても、根源的な喜びの場所を探してゆく権利があるし、その義務すらあるのではないだろうか?


両作品に共通して感じられたのは、はじめからそのジャンルを目指していたのではなく、音楽が持つ人の心を揺さぶる力を、映像の中で最大限に生かそうとして、たまたま現在の形になったのだろうな、という印象だった。言葉や論理が強すぎる時代には、音楽こそが、もっとも包括的な真実を伝える力を持ちうる。


そうした意味では『四季・ユートピアノ』も、映像と音楽の必然的な出会いを記録した作品だと云えるだろう。主人公のピアノ調律師の行く先には、常に音楽が絶えない。映像はむしろ音について行くかのように、その中に飛びはね、たゆたう。マーラーもバッハもベートーベンも、この物語の中では輸入文化の桎梏を逃れて本然を取り戻す。

終盤、ピアノの「A」の音に合わせて始まる、高校生による第九の合唱の場面がある。受け手の感情の起伏を促すためのあざとい仕掛けは全くなく、寧ろ唐突な印象すらあるシーンだ。それなのに、あらゆる映像から得られるものの中でも究極の幸福と言っていい昂揚が、そこに訪れる。生まれた土地から遙か極東の、決して洗練されたとは云えない、しかし来るべき生への期待感に満ちた声の重なりの中で、音楽史上の傑作がまた新たな生命を吹き込まれ、次代へと受け継がれていく姿が、躍動するフィルムの中にしっかりと切り取られている。


音楽は何のために、誰のために生まれてきたのか。レコードの針と音溝が出会う一瞬一瞬に、凍結していた真実が繙かれ時間の中に漂い出る。私たちもまた、無限に連続する現在という瞬間によって読み出される有限の音盤であり、全ての音が今この時にしか鳴っていないように、人間の生も今、この場所にしか存在しないのだ。だから人は、自らの生の許す限り、音楽を愛おしむのだと思う。