”モ”と”キ”が嫌いな人

不思議なご縁で、電波天文学者森本雅樹さんの古稀を祝って2002年に作られた冊子を頂いた。(森本さんのページ⇒ http://www.ojisan.jp/

高校生のころ、野辺山観測所の一般公開で著書にサインを頂いたきりで、直接の面識は無いのだけれど、先日石垣島に行ったときにはどこからかふらりとご夫妻で現れてびっくりした。VERA(http://veraserver.mtk.nao.ac.jp/index-J.html)の石垣島局の見学の時には所員がたまたま外していたので、外国人相手に大声で身振り手振りを交えながら説明をされていて、ああ、日本の電波天文学の草分けの「星のおじさん」からVERAの説明を聞けるなんて役得だなあと思ったりもした。そんな話を職場の人にしていたら、ひょっこり上記の本が手元に来たというわけだ。

「おじさんは宇宙人」と題された冊子は、森本さんの業績ととてもユニークな人となりを、写真を交えて柔らかな口調で振り返るものだったけど、ハッとさせられた箇所もある。
「おじさんの名前はモリモトマサキ。とりわけ「モ」と「キ」がつくお役所がお嫌いである。言わずと知れた「文部科学省」と「教育委員会」」
嫌いな理由のひとつは、「日の丸・君が代のすばらしさを説明できないために、問答無用で従わせようとしているから」だそうだ。

確かに僕自身、国歌が今の曲でなくても、国旗がいまのデザインでなくても、納得できる理由を示そうとする努力すらしないで強制するという行為自体が気に食わない。人の心の中に土足でずかずかと踏み込んで思い通りに操ろうとすることの下劣さを自覚することなく、負託された権力を私物化してのさばる連中のお陰で、多くの子供や良心的な現場の人たちが苦しめられている状態に対してこそ、やり切れない怒りを覚える。それをはっきりと認識することが出来た。

地球上全ての生命活動の源である太陽をシンプルにあしらった今の日本国旗の意匠は、実はそれ自体としては嫌いではない。『君が代』に就いては、森本おじさんの目が覚めるような解釈がある。星雲の中の「さざれ石」より小さな砂粒(ダスト)がくっつき合い、やがて「いわお」のように大きくなって(微惑星)、衝突・合体を繰り返しながら地球のような惑星が形成されたという、20世紀天文学の成果に基づく壮大な物語だ。僭越ながら付け加えさせて頂くならば、さらに「こけのむすまで」という歌詞によって、生命生存可能領域(ハビタブルゾーン)に形成された惑星上に液体の水が満たされ、そこで最初の生命が誕生し、光合成を開始して陸上に展開してゆくというドラマさえ、しっかりと詠み込まれていると言っていいだろう。

これは決して曲解ではない。君が代の歌詞は、純粋に取り出してみれば壮大な時間の中で大地と生命の営みを歌い上げたものと解釈するのが自然で、我が国の伝統的な多神教の価値観にも相応しい。それに本来の「君」とは、老子の思想に見えるような、よく治めているがゆえに民がその存在を意識せず、ただこの住みよい世の中が続きますように、という祈りの中で「千代に八千代に」と思いを託される存在ではなかっただろうか?

国旗も国歌も愛国心も、これまで卑しい輩の為の道具として、人間の尊厳を踏みにじるためにいいように使われてきた側面が大きいことは否定できない。だが「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の伝では、むしろ彼らの跳梁を止めることは難しい。過去の歴史を全否定するのではなく、救済されるべき側面をキチンと取り出して、なぜ擁護すべきかを明確にしながら守っていかない限り、歴史は結局の所、権力を誤用する者のための都合のいい道具であり続けるだろう。



おじさんは「理科を教えさえしなければ理科嫌いが増えることはない」とも主張している。「モ」と「キ」の問答無用で従わせる態度自体が問題なのだ。最悪なのは、誰でも時間をかければわかる「納得の連鎖」を、少しずつ膨大に積み上げていく営みであるサイエンスに関して、論理と文脈を超越した強制的な注入が行われていることだ。科学は教義を鵜呑みにする宗教ではない(さらに云えば、真の信仰は鵜呑みによって生まれるものではない)。これはサイエンスにとって、究極のネガティブキャンペーンと云ってもいい行いである。税金を使ってこんなことをやっているのだから、確かにいい面の皮だ。

賭けてもいいが、日本の教育施策の中心に居る人々は、国歌も国旗も愛しては居ないし、当然自然科学を初めとした人類の知的遺産も全く愛してはいないだろう。自分の中に愛がないから、権力を使って強制する以外の方法に想像力が至らないのだ。おそらく彼らは逆に、なぜ自分がこれほど呪われた仕事をしているのかと、恨みにすら思っているのかもしれない。誰にとっても悲惨極まりない状況である。



これからの時代は、暴走する権力による自由意志あるいは魂への不法侵入に対して、どのように抵抗してゆくかが鍵になる気がする。ネットワークの発達が焙り出したのは、旧来の政治的な立場と関係なく、他者の精神を意のままに操りたい側と、操られたくない側の対立構造だ。技術によって可能になった後者の連繋が、やがては国家とは異なる安定した共同体への道を開くかもしれない。