情報と物質

量子テレポーテーションに関する入門書や解説サイトを見ていて思うのは、人間にとっての情報と物質が、互いに等価になる地点がどうもあるらしい、ということだ。

専門家の直観的理解すら拒む領域に対して素人が論評しても無意味なのは自分でも判っているし、「テレポーテーション」というキャッチー過ぎるネーミングがいらぬ臆測を招きがちな面がある事も明らかだ。それでも、余りに不思議な現象があったものだと思う。不思議すぎて、色々とあらぬ考えを巡らさざるを得ない。

ある物質をその物質たらしめているのは、少なくとも人間にとっては、その物質を観察することで得られる情報である。観察によってその物質(の情報)は人間の脳内にモデルとして再現され、操作可能なシンボルへと変換される。

量子テレポーテーションとは、この観察によって得られる情報(粒子の状態)を、ある場所の物質から別の場所の物質に転送できるということだ。転送の前段階でオリジナルの物質からは情報が剥ぎ取られてしまい、この情報が光の速度を上回らない古典的経路で転送され、新しい物質に付与される。少なくとも表層的にはそのように見える。

この場合、情報を剥ぎ取られた物質というのはいったい何なのだろうか。人間にとって、それはオリジナルの物質としては認識されないだろう。むしろ観察の中では、転送先に再構成された物質のほうがオリジナルなのだ。それゆえこの現象はテレポーテーションと表現されている。

では人間の行う観察とはいったい何なのか?入門書によれば、量子の振る舞いは実際の観測装置を設置することでなく、「観測装置を設置できる可能性を用意してやる」だけで変化してしまうという。では、「観測装置を設置できる可能性」を悟っている主体は誰だろう?それは本当に量子の方なのだろうか?

ひょっとするとそれは、マクロスケールの情報処理機械としての人間の脳の性質に関わることなのかも知れない、と夢想する。量子の振る舞いは、人間の感覚器官の特性に出力を最適化された観測装置によって、巨大なスケール(感覚器官が認知できるスケール)の情報へと変換され、脳内に移送される。脳が量子コンピュータであるという話は聞いたことが無いから(それが量子的振る舞いを人間が直観的に理解できない理由なのだろう)、そうした経路で人間の中に構築された量子のシンボルもまた古典的なものとなってしまう。かくて量子の持っていた情報は欠落して、不完全なものとなる。

我々の認知している世界は、すべて脳が構築している。視覚的な情報について云えば、3次元のパースがつき、可視光線の波長の範囲で鮮やかな色彩が弾ける世界のモデルは、進化の中で全く便宜的に獲得されたものだ。電磁波それ自体には、振動数以外にお互いに区別されるべきどのようなタグも付いていない。色情報というタグはあくまで後付けだし、両眼の網膜に結像する歪んだ2次元のイメージ、頻繁な眼球運動によってつねにブレており、解像度も均一でないそれを、懸命に処理して高解像度の3次元モデルに再構築しているのはあくまで脳だ。だとするならば、量子的な振る舞いをそのまま情報として固定できない理由を量子にもとめるのでなく、人間の脳の性質に還元してどこがいけないのだろう?

脳に上記のような限界があるからこそ、人間は量子テレポーテーションのような現象に対して、「物質が転送された」と認識せざるを得ない。そのとき、転送された情報と、転送元の物質、転送先の物質は等価な存在となる。


仕事柄、自然科学の大規模シミュレーションの成果を目にする機会が多い。素人なりに思うのは、この2世紀ほどの自然科学の急速な発展は、自然を出来うる限り「コード化」し、進歩し続ける計算機の上でシミュレーションとして走らせるための、壮大な前準備だったのかもしれない、ということだ。

モデル化され定式化され、「宇宙のどこでも通用する」ことが保証された知識。宇宙のどこでも通用するということは、当然計算機の中でも通用するということだ。もちろん計算機の進歩速度は、その中で自然を再現するという気宇壮大な目的に対しては、全く遅々たるものだ。それでも、巨大なシミュレーションが作り出す視覚イメージからは、既に現実世界のそれを髣髴とさせる複雑さの片鱗を覗うことができる。

今、情報の中に少しずつ、人間にとっての物質に近いものが姿を見せつつある、そんな気がしている。