心に響く物語 〜『ゼーガペイン』最終回によせて〜

書きあぐねているうちに、アコースティック・パーシャの『月夜浜』が一巡してしまった。素晴しいアルバムだと思う。八重山諸島の民謡が西洋楽器のうっとりするような音色と完全に溶け合って、どこか見知らぬ場所の、だが確かに記憶の奥底にある郷愁を呼び起こす。

そう云えば先日の八重山行では時が足りず、夜の浜辺の姿を見ることが出来なかった。きっと今この時間も、地球が落とす夜の長い影の中で、波は浜に寄せては返し、寄せては返ししているのだろう。目を閉じて音楽に耳を傾けると、見たことのないその景色が鮮やかに浮かび上がってくる気がする。


たぶん、素晴らしい物語の経験は、素晴らしい旅の経験に似ている。終わったあとに全てを記憶している訳ではないけれど、中途で見聞した景色、出会った人々、風や空気の匂い、手足の感触、そうしたものが幾つかの結晶となって心の奥底にしまい込まれる。あとからその結晶を取り出してじっくり眺めることもできるし、自分でもそれと意図しないまま、ふとした拍子にころん、と転げ出てくることもある。

今日、そうした「旅」のひとつが無事に大団円を迎えた。半年近い間、本当に登場人物たちの喜怒哀楽に寄り添って、彼らの時間を自分の時間として生きていた。物語の終幕に立ち会えた充足感と寂寥感のないまぜになった今のこの気分は、どちらかと云うと映画ではなく、長篇小説を読了した時のそれに近い。つい先程までたしかに存在していた世界が目の前で閉じられてゆき、半ば茫然となって活字の海から顔を上げる、あの感覚を本当に久し振りに思い出した。


傑作と呼ばれる物語の背後には、常に作り手と「現在」との壮絶な格闘がある。人間ひとりひとりに出来る事は限りがあるが、一方でその精神活動の集合としての無意識は、瞬間々々に移ろう巨大なポテンシャルとして不可視の裡に存在している。作家が行うのは、全身全霊でこのポテンシャルの「山」にあたる部分を見出し、素早い一手でその頂に石を置いて万人に「視える」ようにすることだとも云える。山は常に移動し続け、現在を見据える終わりのない努力無しに、それを捉えることは出来ない。

おそらく我々には、苛酷な現実を前にして「絶望ごっこ」に興じている余裕は既にないのだ。あるのは引き籠って緩慢な死を待つか、内なる生命力を信じて厳しい外界に打って出るか、の二者択一であり、外界で悲観主義者が生き延びることは困難をきわめるだろう。生ある以上、死の可能性は常に存在する。とすれば、それを前提としてなおかつどれだけ自己を喪わずにいられるのか、と云う事が、自ずと重要になってくる。 情報化する社会と自分。見えにくくなる身体。生(き)のままの環境と自分との間に、薄い紗が一枚入ったような気がしてくる。そんな世界で我々は一体どうやって、本来の森羅万象との関係を取り結び、それらとのやり取りの中で自己を再確立出来るのか。『ゼーガペイン』という物語は、理性と身体性、思考力と行動力をバランス良く持ち合わせ、いついかなる時も決して諦念に屈する事のない爽快な少年を主人公に据えて状況に対峙させる事で、いま現在の中に潜んでいるこうした問いに、見事に応えてみせた。


ラストシーン、真っ青な空と海を前にして、ヒロインはお腹の子に「早く生まれておいで。世界は光で一杯だよ!」と呼びかける。外界は確かに、痛みに満ちた苛酷な場所でもある。だが、それでも新たな生命が生まれてくる事の中には、生命が消えゆく事と対となった祝福が確かに存在する。暗闇の中で、モニターに映し出された映像に向かい「本当の"世界"って何だろう?」と呟いていた少女は、ここにはもういないのだ。