「一足お先に、感謝を込めて」

先日、出張先の宿でふとTVをつけたら、灰谷健次郎さんが話していた。いまから10年近く前に放送されていた、NHK人間大学の『子どもが教えてくれたこと』という番組だった。厳しさと穏やかさが渾然となった風貌、揺るぎない澄んだ眼差し。知らず画面に吸い寄せられてしまうのと同時に、この人がもうこの世にいないと云うことが、俄かには実感できなかった。


灰谷さんの文章に初めて出会ったのは、「『ぼくは悪いことをした』というぼくの聖書」と云う自伝的なエッセーだったと思う。学習塾の先生が何故、小学生相手にこれを読ませてみようと思ったのかは判らない。変わった人で、使用テキストの中には他に「セメント樽の中の手紙」なんかもあった。あるいは子供心に多少のトラウマを刻んでやろうと言う悪意もあったのかも知れないが、今となってはどうでもいいことだ。

”ぼくの聖書”には、タッちゃんというおかまが出てくる。タッちゃんは、荒んだ生活を送っていた灰谷さんをどん底から救った後、ヤクザとのくだらない喧嘩で、突然死んでしまう。その後、彼から送られてきていた「きりん」と云う子供の詩の雑誌を開いた灰谷さんは、中の一篇にものすごい衝撃を受ける…。

このエッセーには、子供心に不思議な魅力があった。そこに描かれていたのは、僕の知らない濃密な人生の姿だった。自分の育った、のっペりとしたニュータウンの街並みの中からは見えてこない、もっと強い陰影に満ちた生き方がこの世界にはあることを、僕はそのとき、初めて知ったのだと思う。

結局このときの強烈な印象は後年まで尾を引き、高校生になった僕は、灰谷さんや「きりん」を出版していた理論社に連なる多くの人々に、図書館や古本屋で出会うことになった。足立巻一、小宮山量平、林竹二、今江祥智といった人々。理想も正義も通用せず、人が人として自分の生を肯定することすらままならないように見えたこの国の状況の中で、ひとりひとりの子どもを独立した人格として認め、択びぬかれた最良のものを手渡そうとする理想を持った人々が存在していたことに、当時の自分がどれほど救われたかわからない。

こうした思い入れが、流行り病のような、年齢相応の青臭い正義感に基づくものだったと言えば、或いはそうなのかも知れぬ。だがあの時には、それがどれほど理想主義的なものであっても、自分の気持ちを安心して仮託できる元気な大人たちが、確かに存在していたのだ。


それから十数年が経過した今、僕は大人として「理想」を生きることがどれほど困難なことかを思い知らされている。あの時には決して判らなかったことだ。

国会では、政府の教育現場への容喙を従来以上に強化する教育基本法の改正案が成立し、防衛庁防衛省に昇格、兵力の海外派遣は本来業務化する。あの頃の「元気な大人たち」はみな齢を取った。憲法改正反対を呼びかける知識人の顔触れは、いつのまにか愕然とするほど皺くちゃになっている。彼らがいまも矍鑠としているのは事実だが、一方でそれに続く世代の顔は見えない。戦後60年以上が経って、辛うじて保たれていた何かが地滑り的に崩れようとしているのは、自分の心の中を覗いてみたって、明らかにわかることだ。

だからこそ、灰谷さんの死は、やはりこたえる。


当今の「夜廻り先生」の言葉と、灰谷さんの話している言葉は一見すると重なるように思える。だが、もしかすると「夜廻り先生」は自らを犠牲にし過ぎているのだろうか。彼の背負っているものはひどく悲痛で、自分の出会った子供たちの小さな、しかし確固とした尊厳について灰谷さんが語るときの、風が吹き抜けるような感覚は、もはや失われてしまっている。

時代から余裕がなくなったのは事実かも知れない。だが、どれほど困難な世になったとしても、人が人である事は変わりようがない。灰谷さんは、自分がこの星に生まれ落ち消えゆく存在のひとつであること、人のこしらえた制度、人がこしらえた建物、人がこしらえた風景のただ中にあっても、その更に向こう側には厖大な自然が広がっていて、人の都合とは異なる摂理に従っているということを、いつもどこかで感じていた人なのだという気がする。その言葉からは、生きていくことの悲惨と幸福とを共に包含する、より深い慈しみが伝わってくる。


番組の最終回、自ら愛した渡嘉敷島の浜辺から語りかける灰谷さんの姿を見ながら、これから更に時が流れても、灰谷さんやその周りに居た人たちの言葉を必要とする人は、必ず現れるだろうなと思った。見失っていた、時代に流されないようにする為の足がかりが、こんな所にあったとは…。


いま僕は、多分その時期を過ぎて初めて、自分が自分を形成したときに何が正しいと思い、何が間違っていると思っていたか、そしてその時どんな大人たちが導きとなっていたかを、改めて検証してみようと云う気持ちになっている。もし、失われた理想の在り処を尋ね、現在の中で自立しうる形に再構築する事が可能なら、遥かかなたにそれを見据えて、また走り出す事ができるだろう。

この気持ちは、子供の頃の僕が彼から受け取ったきり、ずっと忘れていたバトンのようなものなのだ。改めて手にするとずっしり重いし、身体にも精神にもだいぶ贅肉がついてしまったけれど、いったん走り始めたら当分走り続ける事を覚悟して、諦めずに行きたいと思う。






 学んできたとおりに生涯を終えたい。
 精一杯生き、人を愛し、また多くの人に愛されてきた人生に
 何一つ悔いはありません。
  
   一足お先に
   感謝を込めて



(灰谷さんが生前、あらかじめ手配しておいた葉書に書かれていた遺言だそうです)