フィリパ・ピアス逝去

フィリパ・ピアスが昨年12月21日に亡くなっていたことを知る。86歳だったというから、灰谷さんのように殊更無念な気持ちになることは無いのだけど、やはりどうしようもない寂しさがある。「ハヤ号セイ川を行く」の爽やかな夏の冒険の雰囲気が好きだった。「トムは真夜中の庭で」の、主人公の少年が一人きりスケートで凍てついた川を下っていくシーンも忘れられない。間違いなく、言葉を通してこの世界の秘密を語ることが出来る、数少ない作家の一人だった。

英国の優れた児童文学に共通して流れる、独特の瑞々しい世界の捉え方の正体が一体なんなのか、未だに上手く言葉にすることが出来ないのだが(宮崎さんはみごとに映像化してみせてくれたけれど)、たぶんそれは、子どもの外界に対する未分化でそれ故に豊穣な向き合い方を、そのままの仕方で文章として固定する術を作家達が心得ている、という事なのだろう。

子どもの心の中では、人とほかの生き物、人が作ったモノと自然の中にあるモノが等しい価値をもっている。人と人とのコミュニケーションを根底で支えている「感情移入」の力が、そこでは森羅万象に対してひとしく注がれるのだ。子どもがあらゆる物を不思議がるのも当たり前だ。何であれ興味を持って感情移入してしまうから、なぜ「それ」がそんな振る舞いをするのか、どうしても知りたくなる。これは単なる擬人化とはおそらく異なる、この世界の中で感覚器官をいっぱいに働かせて生き延びてゆくために必要な、もう少し深いところから来る力だ。

ピアスの文学の中では、世界はいつも驚くほどの輝きに満ちている。外界を探検し、新たな場所を発見していく喜び、思いもよらぬ他者に出会う喜び、自分の生まれるより前、はるか昔に思いをはせる喜び、そして冒険から戻り、親や兄弟たちの待つ安らぎの場所に戻っていく喜び。目にするもの全ては、この世界の開闢からの全ての時間に、全ての存在が刻んだ膨大な物語をひそかに湛えていて、今まさに自分によって紐解かれることを待っているのだ。

子どもは初めて相対する世界の広大無辺さ、不可思議さにおののき圧倒されると同時に、まさにそのことによって無限の喜びを引き出されてもいる。ピアスをはじめ、優れた児童文学作家は、このことをとてもよく知っている。

「大人になる」ということは、一面で子どもの頃の融通無碍な感情移入の力を、主に人間や社会に対するものを残して刈り込み、また残ったものを鋭く磨いて行くことなのかも知れないが、それはそれで良いのだと思う。大人の認識能力を持ったまま常にあらゆる物に共感していたら、おそらく外界への絶えざる不安が募って発狂するだろう。無条件に包み込んでくれる「安らぎの場所」があればこそ、子どもは安心して冒険に出かける事ができる。そしてその場所を用意するのは、共感の範囲を限定することで世界の中にそれなりにしっかりと根を下ろした、大人の仕事だ。

だが一方で思うのは、たぶん大人もときどき、世界の秘密を覗いてみる必要があるのではないか、ということなのだ。世界の本当の姿は、実際のところ、子どもが見ている姿の方に近い。そこを覗くことは、自己の存在の根底を揺るがしかねない危険な行為だけれど、一方で過去に置き去りにしていた喜びの源を再発見するための旅ともなるのではないだろうか。少なくとも自分にとっては、大人になってからピアスのような作家の作品を読むことは、そのように充実した旅でありえている。これからも折に触れ、彼女の作品世界に立ち返っていくことになるのだろうと思う。