絶望の奥にあるもの

まったく上手くまとめられないけれど、考えなければいけないこと。
今進行しつつある状況を、きちんと見つめていなければいけない。思考を停止してはいけない。


「人間までカンバン方式
「ここ数年、大企業幹部の収入は増え、一般労働者の収入は減った。

各地の工場で派遣労働者が買い叩かれるその一方で。

安易な手段に訴えても、嗤う奴は嗤ったまま素通りするのだ。」
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610


財務省の高齢化による医療費増によって国民負担率が増えるぞという脅しは、国民負担率の高いスウェーデンやフランスにおける医療費の個人負担が日本とほとんど変わらないこと、国民負担率の高い北欧諸国が経済的な競争力で世界をリードしている現状を認識すれば、茶番に過ぎないことが明白です。
 皆さんは、国民負担率の分子=国民の負担+民間企業の負担、であることを知るべきです。スウェーデンやフランスで国民の医療費負担が我が国と同じなのは、我が国の企業の3倍もこれらの国の企業が医療費を負担しているためです。」
http://blog.nikkeibp.co.jp/bio/miyata/2008/06/178504.html#more


まるでアメリカのような個人の分断と格差の拡大。一方で言葉によって、主張によって他者と繋がるすべは、日本伝統の「出る杭は打たれる」式に封殺されたまま。持てるものにとっては夢のような、持たざるものにとっては生きながら悪夢の間を彷徨うような社会がついに到来した。


風景から人と人の作ったもの以外が消えた。たとえば、夜網戸に張り付き、街灯の周りを飛び回り、そこらの草むらですだきにすだいていた、うっとうしいほどの虫の気配は、今は簡単には見いだせない。

人以外のものに繋がりを見いだすことが出来ない状況で、人との繋がりをも絶たれてしまった精神はどこに行くのか。


「カネ」がヒトとヒトの間を往き来するものの全てなのか?
そんなものをやりとりしているのはヒトだけではないか。

ほかに方法がなくて、やむなく「カネ」に託している、
新しい流通のやり方が見付かれば、その方が余程豊かに流れ出すような、
そんな感情やエネルギーが、人々の間にはもともと存在していないだろうか?
「それ」を「カネ」にしないで流通させる手段を、我々はもう、
手に入れつつあるのではないか?


「実験のくもの卵を眺めながら、思う。

生き物の美しさがこんなに身近にあり、奇跡がいつも起こっている。
誰かこの奇跡を一緒に伝えてくれる人はいないだろうか??
そうすれば人間もちょっとは進歩すると思うのだが。 」
http://blog.zaq.ne.jp/sladybugs/article/354/