「痛みが美に変わる時〜画家・松井冬子の世界〜」

さっきまで、ETV特集の再放送を見ていた。と云うより、すっかり惹き込まれてしまっていたと云うのが正しいかも知れない。

この松井冬子と云う画家の人間像に、新しい日本人の姿を見た気がする。
驚くべきことだが、この人は「本当に自分が言いたいこと」の為に、日本語を使っているのだ。言葉の上におかしな被膜が覆さっていない。

行政官の言葉を極点として、この国ではとても永い間、人間の言葉が、本来の目的の為に奉仕してこなかった。言語のやりとりが過度に儀礼化した結果、日本語は最も重要であったはずの「意味」が欠落した、不可解かつ翻訳不能な音声の羅列と化した。これは政治のみならず、経済や芸術、学問の領域に於ても顕著であった。

逆を言えば、この国ではこれまで、「本当に思っていることは、云わない」でも良かった。言葉の空疎さの上を漂っているだけでも、多くの人々の生活がそれなりに上手く行っていたのは、社会がコミュニケーションの間隙を補って余りある、相当な「余裕」を持っていた事の証しでもある。


だが、言語本来の目的とは勿論、意識の伝達であり、コミュニケーションであった。いま、日本を囲んできた築地塀は脆くも崩れ去り、明治維新以降体験した事の無かった著しい経済的転落と、社会的矛盾の噴出を目前にして、これ以上「無意味」を流通させる余裕は、もはや無い。松井のような人物の出現は、おそらく必然だったのだ。

松井の作品は、現代の絵画の多くがそうであるように、生あることのグロテスクさと、苦痛を刻印されている。にも拘らずそれは貧相な自意識を満足させる為に描かれ続けている、閉塞感に満ちた他の作家のものとは、決定的な一線を画す。その背負うものはもっと広く、深く、重いように見える。それは多くの人々の無意識を引き受けつつ救済へと進む、英雄的と云ってもいい歩みなのかも知れない。日本美術もまた、永く喪われていた「意味」を回復しつつある。かつて「九相詩絵巻」がそうであったように。

番組中での対談相手の態度が非常に象徴的だった。二人の男性芸術学者たちは、この国で「言葉」と「美術」の持つ意味が転回しつつある事に、多分戸惑っている。余裕の下に空疎さと戯れる気分とは無縁な、直截ズバリと存在に切り込んでくる松井の態度にたじろぎ、怯えてすらいるのではないかと見えた。最后に登場した女性社会学者は、これとは対照的だった。己れの学問をそのまま全存在として、極めて「男らしく」美術家と渡り合い、逆にそれまでの対談でまったくブレなかった松井が、初めて「揺れた」ように見えた。これは多分、日本においてこれまで女性が置かれて来た立場と、密接な関係がある。自分の「言葉」や「学問」と、自分自身を切り離すような事は、所詮特権を持つ者たちの「知的お遊戯」でしかない。女性でありながら社会が強いる生き方をしないと云うことは、その様な「余裕」が許されない事と同義だった。もとより、覚悟の坐り方が違うのだ。


経済的、社会的な面での日本の将来は極めて暗い。だがそのどん底から、おそらく近代化このかた登場し得なかった松井の作品のような強靭な表現が幾つも生まれ、世界中に向けて飛び立って行くであろう事に、今の僕は些かも疑いを持っていない。

かつての豊かさが育んだ肥沃な土壌に、他者への信頼と、力のある言葉と、真の幸福を求め願う心がやがて芽吹くだろう。その意味では、国家の未来はともあれ、この日本に住まう人々の「人としての未来」は明るいのではないか、かすかだが、そんな希望を持った。