セントジョセフ

ゴチックの大聖堂(ランス大聖堂)の柱に設置された彫刻。

今回の最大の収穫は、いつも描いている距離から少し離れたところに、モチーフの構造がきちんと把握できる位置を発見したことだ。高々十数センチほど遠ざかっただけだが、そこからは驚くほどスムースに3次元的な形態が頭に入り、出来るだけ腕を伸ばして描画を行うことで、それを的確に紙の中に再現できた。

驚くべきは、この認識が可能になっている間、多少の視点の変化には全く動じなくなる、と言うことだ。視点によって影響されない、何らかの不変量が脳内に構築されているのを感じる。また、輪郭線の位置が、紙上で「ここ以外にはあり得ない」という形でわかる時がある。そのとき私は、見える線をなぞっているのでなく、モチーフを脳内であるべき画角に改めて回転させ、その輪郭を「再創造」していた。

その必然は2次元的(=外的)に齎されるものではなく、脳によって3次元的な形態がまず把握され、その内的不変量としてのボリュームの境界が、視点との関係で一意に確定することの帰結としてやってくるのだ。

各部の輪郭線や陰影など、それまではバラバラの部分でしかなかったものが、突如として統合されていく面白さ。おそらくそれは、脳が行っていた3次元のジオメトリックな演算が「解けた」ことに対応するのだろう。たとえば頭部の骨格が部分的陰影の中から突如「発見」されたとき、無上の驚きと喜びがそこにはあった。

モチーフとの対話とは、もっともっと抽象的なレベルで行われるものだと思っていた。だが今感じているのは、それはもっと具体的な、言語による対話行為に近いと云うことだ。それほど明快な言語が、人の作った(解釈された)形態の中には存在しており、その言語は共有することも、流通させることも可能なのである。はるか過去の時間にモチーフに閉じこめられたメッセージが、分節化され理解されるために、ずっと私の認識を待っていたのだと思うと嬉しくなる。この伝でゆけば、自然の形態を読み取る作業は、見えざる創造者の存在を身近に感じ、その思考を跡づける作業となるだろう。おそらくある時点まで、彫刻に従事するものは、己の脳の演算による跡付けを通して、万全なる造物主(比類なき演算者)、すなわち神の存在を他の人より近くに感じていたに違いないのだ。



・ミレイ展と藤幡さんの話。舟越桂さんの話との関連

 メディアとしての繪畫。「オフィーリア」の前で感極まって涙するものも居たということ。当時絵画は映画だった。
ファンシーピクチャーや、職人による複製版画の制作と頒布。絵画を取り巻く社会状況について、もっと関心を持つべき。

美術館はすべての造形を現代の基準で分類して配置するが、時代時代の中でそれぞれの表現物の持つ意味は全く違うことに留意すべき。共同体のために作られたものと、ルネサンス以降の個人主義の元に作られたもの。パトロンと純粋造形主義、さらに巨大ビジネスとしての現代アート

表現活動のコンテクストを意識しつつ、最終的にはより普遍的な無意識に働きかける事が出来る存在としてのメディアを考える。それは現代のアートの枠組みに収まっている必要はない。定義はいつも後からついてくるのだから。