リアリズムに踏みとどまる事の意味

揺らぐリアリティ。
次々に開かれるリアリズムの画家たちの展覧会。

「向こう側」に分け入る手段としての写実。
魔術的リアリズム
宮崎駿。ファンタジーが飛翔する瞬間。(なかなか向こう側には行かない)



・藤幡講演の感想
 真の近代を経ていない日本の大衆(知識人?)への軽蔑。
 だが、時代の無意識や、さらに国家・民族・社会を超えて、子ども時代に存在するものを無視して良いのだろうか?
 メディアの状況測定の手法はもはやアートではなく「Beyond Pages」の中にあったもう一つの部分、ドラマと根源を同じにする部分にあるのではないか?
 それ故にアートの力が落ちているのではないだろうか。

 芸術家に欠かせない「相対化」「批判」の能力とは、空間的・時間的にいかに広い文脈に自分を置くことが出来るか、その中で思考することが出来るか、と言うことでもある。文脈を広げていくことは、時代の濁流の中で自分を自由にする。大きな流れに乗るだけでなく、自分の舟で、自分の舵を取って、本当に向かうべき方向を見定めることが出来るからだ。

 歴史を知ること。海の外を知ること。多様な人々に出会うことが重要である。それは巷間受け入れられている「アーティスト」でなくても十分に実践可能な営為である。

・写真と出会った画家のうち、転向したのは「写実絵画のうち、写真と代替されうる部分」だったのではないか?リアリズムの方にとどまったミレイやハマースホイ、ワイエスは何を目指したか?そして高畑・宮崎の映画の中に生きながらえたもの。


・彫刻を中心に考える。世界のあらゆるものは3次元であるから。ミケランジェロも3次元から2次元へと落として天井画を描いた。建築、都市、地形、生物の形態すべてを包含するものは彫刻的視点であり、彫刻的言語である。

・型どりという「写真的技法」が太古から存在した彫刻においては、写実彫刻は常に「写真以後」であったともいえる。

・社会の中のビジネスの一種としての表現行為と、表現者本人の知覚を変革してゆくものとしての表現行為は全く違う文脈で語られるべきものだ。

・彫刻においては、石膏デッサンは対象(モチーフ)について「識る」ことだ。光源と、テクスチャが白に中立化された物体のインタラクションから、脳内に3次元の物体を復元すること(=形態の理解)である。これによって、脳内でモチーフのアングルの変更を行い、紙上に破綻のない形態を再現する事が可能になる。目的は写真的な(2Dの陰影の連続としての)の写し取りではない。
 写真の出現によって「死ななかった」理由がここにある。


・彫刻の言葉を覚えると、視野に入るすべての3次元形態をこれまでより深く認知することが出来る。これまでは訳の分からない外国語を聞いていたのが、徐々に形態の言語で何が語られているかが分かってくる感覚である。

・これは言語により対象が分節化されて、「現物を目の前にしなくても」、シンボルを用いたコミュニケーションが可能になることと同じ事であろう。

・こうした訓練の意味を理解した上で人間が行う事の有効性は、今もって失われていないのではないかと考える。我々は「自然の忍耐強い観察者」である必要があるのだ。


・川村清雄の中に見る可能性。