プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展

日本の美術館の展示室で多用されている蛍光灯による照明が、他でもない日本美術の展示にとって最悪であることを明確に指摘したのが、日本語を解さず、日本美術史に疎く、ただ「絵」としての力のみを注視して蒐集を進めた外国人コレクターだった、ということを考える。

彼がエンジニアとしての教育を受けていたことを軽視すべきではないだろう。重力に逆らって構造物を建てる為の知識は、地球上のどこに行っても全く同じように通用する。もし「美」というものが人類に普遍の価値であるとするならば、それは言葉や歴史を共有しない人間にも訴えるものであるはずだ、という判断は正しい。そうした美はおそらく空間的な距離だけでなく、時間的な距離すら飛び越える価値を持つだろう。その上でそれらの価値を最大限に発揮させるべく、「美」が本来存在していた環境(視線の位置や照明など)を出来るだけ再現した上で鑑賞する、という考え方も、圧倒的に正しいものと思える。

火焔土器も銅鏡に刻まれた文様も、それが誰の手になるものかは既に知ることが出来ない。伝わってくるのは、純粋な造形美のもつ力だけだ。逆に云えば、人が作り出したものは、ある時点からは美の力のみによって歴史の中を生きながらえてゆくことになる。思えばこの国の不幸は、美を作り出す才能の不足にあるのではなかった。ただ、己れの審美眼に存在のすべてをかける、信頼すべき批評家を持たなかったことに、全ての悲惨が端を発しているように思える。この国の批評家や学者は、自己の外に価値を追い求めるの余り、自らの目をふさいでしまった。結果としてそれは、彼ら自身の文化の中の数多の宝を埋もれさすことへと繋がってしまったのだ。

我々は最良の日本美術を最良の環境で見ることがないまま育ち、受け継がれるべき美意識を欠いたまま死んでゆかなければならない。過日ボストン美術館の日本展示室を訪れた際の最大の衝撃は、わが国の国立博物館の常設展示が、作品の水準・展示の水準ともに全くクズに近いと思い知らされた事だった。舶来の美に打ちのめされる前に、自らの内なる美を指摘し、それを守る意思を鼓舞する幾人かがあれば、こうした事態は避けられたのではないかと思う。

既に「もうひとつの明治美術」のような画期的な展覧会が行われ始めているとはいえ、江戸期の画家に対してわが国でようやく広がり始めた正当な評価が、明治期以降の画家に届くまでにはいったい何年かかるのか。権威付けされた価値判断によらず自らの眼で美を見分ける力を養わぬまま、いたずらに「美しい国へ」などと吹聴した所で、裏づけを持たない言葉のうそ寒さがいっそう際立つだけであろう。