電脳メガネという小道具

ゼーガペイン」の時もそうだったけれど、「電脳コイル」を見ていると、SFという枠組みが、ようやく未来を予感させる力を取り戻しつつあるのだな、と改めて実感する。ネットワーク通信技術の爆発的な発展による文明の転回もいくぶん落ち着いてきて、再び遠くを見渡せるような、確固たる足場が出来てきたからだろう。

SFはもちろん、サイエンスそのものとは違う。それは、科学技術が現在進行形で人間社会にもたらしている変化を見据え、それに仮定的な変位を加えることで、まだ見ぬ世界のビジョンを提示する一種の寓話なのだ。寓話は、人々の漠然たる予感を形にしてみせる事ができたとき、初めて力を持ちうる。

電脳コイル」の中で描かれる拡張現実感の世界は、既に我々を取り巻いている状況を判りやすく映し出す鏡だ。子供たちが使いこなしている電脳メガネという小道具を通じて、情報と物理的な実体が入り交じって存在する「今」が浮かび上がる。メガネを通して見る、現実に重ね合わされた街・友達・ペットといった情報化された存在たち。そしてこの物語においては、自らの身体も現実世界と電脳世界の双方に二重化されて存在しているのだ。

重要なのは、精神にとってはどちらの世界も現実だということだ。ネットワークの世界は、当然のことだが人間にとっての現実世界であって、「仮想」世界でもなんでもない。ネットワークでのコミュニケーションは、あたかも物理的実体を持たないかに見えるが、まさに同等の意味で、直接人と人とが会って行うコミュニケーションにも、本来物理的実体など存在しないのだ。

例えば印刷された「本」は、物理的には樹木の繊維を薄く引き延ばした支持体を幾層にも重ねたものに、化学合成された染料が定着されているものでしかない。これを「読む」事で、物理的実体以上の情報を取り出しているのは人間の方だ。同等の事が貨幣経済についても言える。一万円札と千円札を質量分析計に掛けたとして、お互いの組成の間に有意な違いは出るだろうか?紙幣を単なる紙+インク以上のものとして認識し、しかるべき情報を投影して流通させているのは、やはり人間なのだ。

拡張現実感などという概念が云われる遙か以前から、我々は現実の物理的な世界に、物理的なもの以上の情報を付加して「拡張」してきた。遙か昔、誰かが洞窟の壁面に岩を砕いたものや木の実の汁などを塗りたくって、無数の動物の姿を再現してしまったときに、既に現実の拡張は始まっていたに違いない。情報技術の発達は、その事を明確にしてみせたに過ぎない。

かつて一万円札に我々が付加していた情報は、今や電子のビットとなって定期入れのICカードの中に収まり、人々は今日も足早に改札を通り過ぎていく。こうした時代に生まれ合わせた子供たちは、自らを取り巻く現実を、まさに「電脳コイル」に描かれたような二重写しの姿で捉えるはずだ。情報に付加されていたおまじないとしての物理的担体が限りなく透明になり、情報が本来の速度で飛び回り始めたばかりの今の時代の予感を、この作品は見事に捉えている。

この予感の先には、我々が実は物理的世界をも情報として捉えているということへの認識がまっている。脳の中で再合成される世界の中では、物理的な世界に由来する情報と、情報自体として入ってくる情報の区別は本来的には不可能だ。

もちろん、だからこそ「物語」が可能になるとも言える。演劇を演じている役者は、物語世界の中での登場人物の精神そのままを再現している訳ではない。例えば、舞台上での立ち位置・出捌けのタイミング・今日の観客の反応などなど、演技しながら考えるべき事は幾らでもあるだろう。登場人物の精神が再現されるのは、あくまで観客の中においてなのだ。観客が役者に登場人物の姿を重ね、舞台空間にもう一つの世界の姿を重ねる。観客はみな、電脳メガネを掛けているというわけだ。

そして、そもそも人間が宇宙を理解できるという、サイエンスの根本そのものにも、この二重写しが深く関わっているはずなのだ。自分の中で再構築された宇宙は、純粋に情報で成り立っているが故に、時間と空間の制約をほとんど受けない実験場として機能できるからだ。

情報と物質の話は、折を見てまた掘り下げてみたいと考えている。